目次
「利休の闇」で、利休の謎はいくつ明かされる?
加藤 廣(かとうひろし)が
「千利休」を描くなら、
予想外の鮮やかな謎解きがあるはずだ。
いくつかの謎が、
加藤 廣の視点で解釈されていて、
それなりに面白いけど、物足りなかった。
いくつか面白い解釈がありつつも
大きな驚きはあまりなかった。
そうは言いつつ
面白かったくだりをまとめてみた。
「利休」の名前は秀吉からの押しつけだった?
本人は気に入ってなかったらしい。
今では「茶聖」として
誰もが知る「千利休」の名。
この「利休」の名は
朝廷と秀吉から押しつけられた名前だったと書く。
もともと”千利休”は、「宗易」を名乗っていた。
利休=名利共休の意味は
名誉欲・利材欲を超越し、
これに拘泥しない自由の境涯を意味する。
悟りの臭みが消え、
自然で気負いも飾り気もない境地。
格好いい雅号だと思う。
なぜこの雅号が押しつけなの?
押しつけと推測する理由は、
「朝廷からの命令=下賜」だったから。
朝廷の背後には秀吉の意向が働いている。
つまり秀吉は、
「利休」が意味するような
清らかな人間になれという
命令を下したのだ。
それってつまり・・・
茶聖・利休は、欲深い人だった
![](https://i0.wp.com/hirunenikki.com/wp-content/uploads/2019/07/senno_rikyu-01.jpg?resize=399%2C386&ssl=1)
宗易は女遊びや
贅沢な消費、茶道具の値付けで
大儲けした等理由で、
朝廷の不興をかい、
宮中への出入りを禁じられていた。
「利休」への改名は、
そんな宗易への嫌がらせだったらしい。
ただし、宗易にもメリットがある。
改名することで
別人になる=追放が解け、
宮中の茶会にも出席できる。
宗易は利休への解明を
「有り難き幸せ」と承った。
ただ、内心では気に入ってなかったらしい。
気に入らないだろうね。
秀吉直系の手紙には「利休」と署名したが、
それ以外の手紙には「利休・宗易」と連署していた。
また花押は「宗易」をずっと使用した。
ひそかに抵抗していたんですね・・・。
「利休」の名前で人々の記憶に残った皮肉
想像してみると、
もし「宗易」のままだったら、
茶聖のような存在として歴史に残っただろうか。
「宗○」と名乗る茶人は
多数存在していたら
その中に埋もれてしまったかもしれない。
(最期に切腹させられる悲劇があったとしても。)
“利休”という先例のない
悟りを感じさせる雅号が
彼を人々の記憶に残したと言える。
秀吉は利休の名前を押しつけたつもりで、
利休の名声を残すことに力を貸したかもしれない。
待庵・黄金の茶室が狭い理由
「待庵」誕生のきっかけ
利休考案と伝えらえる「待庵」は
わずか「二畳」。
当時の茶室は「四畳半」が普通だったから、
約半分に削ったんですね。
※さかい待庵の画像をお借りしました。
![](https://i0.wp.com/hirunenikki.com/wp-content/uploads/2019/03/9fae8aecb00c9e5739c5c21f6c89ac78.jpg?resize=538%2C358&ssl=1)
茶室を二畳半に造ったのか。
この小説では、
秀吉の山崎の合戦直前に、
山崎で待庵が誕生した。
味方の武将を奮起させるため
戦の前に武士茶会を開いたのだ。
秀吉の依頼で、利休はたった1日で
茶室を造らねばならなかった。
1日で茶室を造ろうとすると・・・
限界が「二畳半」だった。
大胆推理である。
でも確かに、戦の前に
狭い二畳半でお茶を振る舞われたら
秀吉と武将の距離はぐっと近くなっただろう。
この人のために戦おう。
感激してそう思っただろう。
待庵誕生のきっかけが
「秀吉の人たらし作戦」という
読みが面白い。
黄金の茶室は暗い宮中で輝くために造られた
黄金の茶室は、三畳。
移動・組み立て式の画期的な茶室である。
さかい利晶の杜での「黄金の茶室(復元)」も
可愛らしい大きさの茶室だった。
![](https://i0.wp.com/hirunenikki.com/wp-content/uploads/2019/03/IMG_1091.jpg?resize=554%2C448&ssl=1)
黄金の茶室は、宮中へ持ち運ぶために
移動・組み立て式の茶室として
設計された。
宮中に運び入れる茶室だ。
そして、なぜ三畳なのか。
金箔を剥がさずに移動・組み立てするには、
この大きさが限度だった。
金の使用量は、茶室で100㎏。
茶器で50㎏と言われている。
それだけの金箔を
投入したのか。
現代の明るさのもとでは、
黄金の茶室は成金趣味に思えるけれど。
黄金の茶室は、
暗く奥深い宮中でほのかに輝き、
幽玄な美しさで帝をお慰めした。
![](https://i0.wp.com/hirunenikki.com/wp-content/uploads/2019/03/IMG_1100.jpg?resize=320%2C180&ssl=1)
「つくも茄子」の謎
この小説では、「つくも茄子」の謎にも触れられている。
※静嘉堂文庫より画像をお借りしました。
茄子のようなぷっくりしたフォルムから
「つくも茄子」と呼ばれている。
![](https://i0.wp.com/hirunenikki.com/wp-content/uploads/2019/07/tukumo-1.png?resize=394%2C338&ssl=1)
つくも茄子とは
もとは足利義満が所有した唐物茶入。
その後何人かの手を経て、織田信長のもとへ献上された。
織田信長はことのほか気に入り、
常に持ち運んで愛でていた。
通説では、織田信長の死後、
本能寺の焼け跡から拾い出され、修復され
豊臣秀吉に献上されたと言われているが・・・?
この小説では、
本能寺で焼け落ちたはずの
「つくも茄子」がなぜか無傷で
秀吉がこっそり所有していたと描く。
その謎をしつこく追究した
利休の弟子「山上宗二」は
秀吉の怒りを招き
耳と鼻を削がれた上、打ち首にされている。
(ひぃ・・・(>_<))
![](https://i0.wp.com/hirunenikki.com/wp-content/uploads/2019/07/souzi.jpg?resize=288%2C355&ssl=1)
漫画「へうげもの」山上宗二は、
どうしても秀吉にお世辞が言えなくて、
打ち首になったけれど、
真相はどうったんでしょう。
加藤廣の最高傑作は「信長の棺」
加藤廣は、本能寺の変=秀吉謀略説を
「信長の棺」で描き、
衝撃の文壇デビューでした。
新たな解釈で、面白かったなぁ。
その面白さに比べると、
利休の闇は物足らない読後感だったかな。
茶人「利休」の美意識を読みたいなら
「利休にたずねよ」
「利休の闇」で描かれた利休は、
茶人としての美意識と、
権力への欲望が入り交じっていて、
すっきりしない人物になっていた。
「美の求道者」という視点では、
「利休にたずねよ」の利休が圧倒的な魅力があった。
美に対して傲慢なまでに
追究する姿勢が貫かれていた。
死んでなお、秀吉を悔しがらせる
利休の存在感が強烈でした。